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監督シンポジウム 押井守監督×高橋良輔監督が語るアニメーション演出レポート

対談風景7月11日にWAO映像・アニメーション研究所にて「監督シンポジウム 押井守監督×高橋良輔監督が語るアニメーション演出」が開催されました。
こちらは、高橋良輔監督と以前から親交のある、『機動警察パトレイバー2 the Movie』『イノセンス』などで有名な押井守監督が、高橋監督と対談。アニメーションの演出論や監督論について語るというものでした。

まず、押井監督作品についてお二方が話されたあと、会場で『FLAG』の映像が上映されました。押井監督は、その『FLAG』オープニングを賞賛。

押井最近のアニメは、オープニングが懲りすぎていて中身がわからないものが多いんですが、これは見ただけで世界観がわかりますね、かっこいいです

高橋高橋良輔監督オープニングのカラー写真は、最初は寺田監督のコンテにもなかったんですが、僕がコンテを見たとき瞬間的に『主人公の白州冴子の、小さいころからの写真を入れてくれ』と言ったんです。ごくごく一般的な家庭の写真を入れることにより、戦場写真などとの対比で切なさのようなものが出てくると思ったんです

押井押井守監督2種類の写真を並べることでギャップが出ていますね、片方は平凡な生活で、片方は歴史的な映像の写真だけど、『両方とも同じ写真なんだ』という、本編の予感が臭ってきます。今の若い監督はスタイルを意識したり様式でオープニングを作ったりできると思うんですが、世界観のダイジェストにしかなっていないものが多いですね。ビジュアルは凝っているけどキャラクターの奥行きがない、匂い立つような情緒がない。そういうのに比べると、『やっぱり良輔さんだ』と懐かしいものがありましたね

さらに押井監督は、自分と高橋監督では興味をもつ点が似ていると語っています。

押井僕は今『ケルベロス 鋼鉄の猟犬』というラジオドラマで、第二次世界大戦の独ソ戦の話をやっているんです。それの主人公が宣伝中隊の女性士官で、戦場のドキュメンタリー映画を作ろうとしているという話なんですが、カメラマンが主人公だという『FLAG』と設定が似ていますね

高橋僕は、『FLAG』のあとで作ろうとしている作品のイメージが、独ソ戦のレニングラード攻防戦(*1)とかスターリングラード攻防戦(*2)だという話をしていたんですが、『押井さんは何をやっているんだろう』と思ったら、押井さんも同じ独ソ戦の話をつくっていたんです(笑)

押井僕の話はもうじきスターリングラードに入りますよ。やはり、なんとなく意識がかぶっているのを感じますね。良輔さんが『ボトムズ』をやっていたときも、僕はロボットものを戦争映画として、アクチュアルにやってみたいと思っていたんです。ですが僕がいたタツノコプロも、ぴえろもそういうアニメをやるスタジオじゃなかったので機会がなく、ずっとあとに『パトレイバー2』をやることができて、ある程度溜飲を下げられたんですが。
『ケルベロス 鋼鉄の猟犬』でも、独ソ戦の話だと登場人物がオヤジばかりになるから主人公を女性にしたんです。僕は、女のキャラクターにはあまり感情移入できないんだけど、その主人公は映画監督で、自分も監督だから感情移入しやすいだろう、やりやすいだろうと考えたんです。そうしたら『FLAG』の主人公も女性だったし、シンクロするなあと思いましたね

最後に両監督は「どう作品を演出するか」「監督の役割とは何か」ということについて語られました。

高橋高橋良輔監督本来監督には演出能力が必要になるんですが、僕は自分の演出能力を信用していません。
ですから僕の監督としての仕事というのは、作品の言い出しっぺになることですね。僕は、自分の環境にどんなスタッフが関わるとどんな映像ができるかというのが想像できるんです。自分でイメージするその完成像をスタッフに語って、それに向かって進むよう鼓舞していくのが僕の監督像です

押井押井守監督僕は、作品のたびに監督としての立場が違うと思います。低予算の作品では小回りの利く自由度の高いことができるんですが、予算の多い作品だと、サッカーの監督みたいにマネジメントしていくことが重要になってきます。 事前に準備して、予備戦力をどこに投入するかを考える。そして勝負に出るぞというときは明快にそう言いきる。同時に、日頃のスタッフに対してのメンタルケアを怠りなくする。ですから、周到さと蛮勇さの両方が要求されると思います。
基本的に監督がやることは2つしかなくて、始めることと終わらせることです。立ち上げることは監督にしかできないし、どういう落としどころにもっていって終わらせるかという決断も、監督にしかできません

押井&高橋 監督今後この2人の監督が、それぞれどのような作品を作り出していくのかとても楽しみに思える対談となりました。


*1 レニングラード攻防戦
第二次世界大戦中、ドイツ・ソビエト戦線のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)で行われた戦い。1941年7月8日にドイツ軍が攻略を開始、一方ソビエト側は、市民総出で市内に対戦車バリケードや陣地を構築する。それを警戒したドイツ軍はレニングラード市内への突入を控え、包囲のみに留めた。だがその結果レニングラードへの物資補給の道は、凍結した川の上を伝う貧弱な輸送路などに制限され、取り残された市民などから多数の餓死者が出た。
1943年1月12日よりソ連軍が反攻作戦を展開。その後もレニングラードは部分的包囲を受けていたが、1944年1月になるとドイツ軍は撤退し、レニングラードの包囲は完全に解除された。この戦闘で、ソ連側は軍人・民間人会わせて100万人以上の死者が出たといわれる。


*2 スターリングラード攻防戦
第二次世界大戦中、ドイツ・ソビエト戦線のスターリングラード(現ボルゴグラード)で行われた戦い。1942年9月にドイツ軍が市内に突入したが、爆撃や砲撃で破壊された廃墟を巧みに利用したソ連軍の抵抗に遭う。この地では、建物のひとつひとつどころか一部屋ずつを奪い合う戦いとなり、同じ建物の主が日によって何度も変わった。だが激戦の末、ドイツ軍は10月末には市の大部分を制圧する。
しかしソ連軍は11月19日に反撃を開始。手薄だった、ドイツ同盟軍のハンガリー軍、ルーマニア軍の戦線を突破して、スターリングラードのドイツ軍を包囲しようとする。ドイツ軍の将軍達はスターリングラードから撤退しようとしたがヒトラーはこれを拒否する。
結果、スターリングラードのドイツ軍は包囲され、物資も底をつき、最終的には降伏した。包囲されていたドイツ第6軍と枢軸国軍23万のうち、生き残った9万人が降伏して捕虜となったが、厳しい捕虜収容所での生活に生き残り、戦後帰国できたのは6000人に過ぎなかった。


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